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日本人は気質としてこういう傾向がある|これを踏まえて家族・当事者はどうすべきなのかの考え方として持っておくと視野が広がる|北米の国と日本人との違いを心理学研究から|統合失調症のリカバリーの土台を作ろう

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こんにちは!大地です!統合失調症歴13年目になります!!
久々の投稿になります、最近体調崩していて中々ブログを書けていなかったのですが、ようやく書けました!!というか、書いていた内容が完成しました!(笑 今回の記事は2万2000文字ギリ行かないくらいあるので、めっちゃ読みごたえがあると思います!(/・ω・)/ さらっと読むと分からなくなるような内容かも?なので、しっかり読むなら大体40~60分くらいが閲覧時間かなと思います。はっきり言ってめっちゃ多いです、めっちゃ多いので時間があるときにゆっくり見てくれればなと思います!(・ω・)ノ
それでは本題に入りますが、今回なんですけど、心理学研究で日本人の元々の性格や気質の傾向が書いてある論文を見つけたので、それについて書いていて、その内容から家族・当事者のリカバリーについて書いています。何で統合失調症の当事者って、出来なくなったことや自分にとって悪いことに目が行きがちなのかな?とか、統合失調症という病気になったことを認めないのはなんでかな?など、それらの答えが日本人の元々の性格や気質によるものの影響も関係しているという事が、心理学の研究結果から推測できました!

もちろん、妄想の影響や妄想と幻聴の両方の影響など、病気そのものが影響している方もいます。しかし、今回の心理学の論文から、統合失調症とは関係なく、日本人って大多数がこういう傾向にあるというものがあって、それらを知っておくと、当事者自身なら自分の傾向と当てはめて考えられるし、ご家族の方もその傾向を踏まえて自分がどうすればいいか考えるきっかけになると感じています!

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①導入|人は本当に自分を良く見ようとするのか

この論文では、「人は自分を良く見たいと思うのか」という、心理学で長く研究されてきたテーマが扱われています。特に研究者たちは、日本人と北米人では「自分自身の見方」にどのような違いがあるのかを明らかにしようとしました。

従来の心理学では、人間には「自分を肯定的に見たい」という基本的な欲求があると考えられてきました。人は「自分には価値がある」と思いたい存在であり、自分を良い人間だと感じたがる傾向があるという考え方です。このような見解は長い間、心理学において非常に強い影響力を持っていました。

例えば、人は成功した時には「自分の努力や能力のおかげだ」と考えやすく、失敗した時には「運が悪かった」「環境が悪かった」と環境のせいにしがちな傾向があります。また、自分は平均的な人よりも少し優れていると感じる人が多いことも知られています。こうした傾向は、すべて「自分を良く見たい」という気持ちが背景にあると説明されてきました。

北米の心理学では、このような「自分を肯定的に評価する傾向(自己肯定視)」は、人間に広く共通する普遍的なものだと考えられていました。しかし、文化心理学の研究が進むにつれて、「本当に世界中の人が同じように自分を良く見ようとしているのだろうか」という疑問が浮上してきたのです。

その中で特に注目されたのが、日本人の自己評価でした。

これまでの研究において、日本人は北米人ほど自分を高く評価しないことが何度も報告されてきました。例えば、「自分は平均より優れている」と答える割合が北米人より低かったり、自分の欠点に対して非常に敏感であったりする傾向が見られていたのです。

研究者たちは、この違いが単なる個人の性格の差ではなく、文化的背景が大きく関係しているのではないかと考えました。

北米では、「自信を持つこと」や「自分を積極的に表現すること」が重要視される傾向があります。自分の能力を信じることは美徳とされ、自分を前向きに見せることも社会的に評価されやすい文化があります。そのため、人々は自分の長所に注意を向けやすく、自分に対して肯定的な見方を持ちやすいと考えられています。

一方で日本では、自分を強く主張しすぎることは必ずしも良いこととはされません。周囲との調和(和)を大切にする文化があるため、自分だけを目立たせるような行動は控えられます。それよりも、自分の欠点や不足している部分を見つけ、それを改善しようとする態度が重視されやすい傾向があります。

論文では、日本人の大きな特徴として「自己改善」の姿勢が挙げられています。これは、自分の弱点や至らない点に目を向け、それを少しずつ克服していこうとする考え方です。

研究者たちは、日本人は「自分は完璧だ」と満足するよりも、「まだ改善できる余地がある」と捉える傾向が強いのではないかと述べています。つまり、自分を高く評価することよりも、自分を見つめ直して成長しようとする方向へ意識が向きやすいということです。

また、この論文では、日本文化における「他人からどう見られているか」という他者視点も重要視されています。

北米では、自分自身が「自分をどう思うか」という内面的な評価が重視されやすいのに対し、日本では「周囲との関係性」のなかに身を置くことが重視されます。つまり、日本人は「自分がどう感じるか」だけでなく、「周囲からどう思われているか」にも強く注意を向けやすいということです。

そのため、日本人は自分の欠点を意識しやすくなります。もし欠点を放置してしまえば、人間関係や集団の調和に悪影響を与える可能性があるからです。逆に言えば、自分の不足している部分に気づき、それを直そうと努力することこそが、周囲との良好な関係を維持することにつながると考えられているのです。

しかし、ここで研究者たちは一つの大きな問題に気づきました。

それは、「日本人は本当に自分を低く評価しているのか、それとも単に謙遜しているだけなのか」という問題です。

日本では古くから、謙虚さや控えめな態度が美徳とされてきました。そのため、日本人が質問紙調査で「自分はそれほど優れていません」と答えたとしても、それが本心からの言葉なのか、あるいは社会的な配慮(マナー)としてそう答えているだけなのか区別がつかない、という問題が生じるのです。

ここで論文に登場するのが、「建前」と「本音」という概念です。

「建前」とは、社会の中で円滑な人間関係を保つために表に出す態度や発言のことです。一方で「本音」とは、自分の内側にある本当の気持ちや確信を意味します。

研究者たちは、日本人は建前として控えめに振る舞っているだけかもしれない、と考えました。つまり、表向きは「自分は大した人間ではない」と言っていても、心の中では「本当は自分は優れている」と思っている可能性があるということです。

さらに研究者たちは、日本文化では「人前では控えめに振る舞うこと」が強く求められる場面が多いと説明しています。もし自分を過剰に誇るような発言をすれば、周囲から敬遠されるリスクがあるため、人前で謙遜することは社会的に最も望ましい生存戦略になることがあるのです。

そのため、これまでの研究で見られた「日本人は自己批判的である」という結果も、実は質問紙という調査形式に特有の回答傾向に過ぎなかった可能性があります。つまり、本心からそう思っているのではなく、社会的に適切な選択肢を選んでいただけかもしれないという疑問です。

研究者たちは、この問題を非常に重要視しました。もし質問紙の答えが単なる「建前」であるならば、これまでの文化比較研究の解釈そのものが根底から覆ってしまうからです。

そこでこの論文では、「本人が自分の心理傾向を測定されていると気づきにくい手法(潜在的な測定アプローチなど)」を用いる必要があると考えました。もし、本人が意識していない隠れた行動レベルでも日本人が自己批判的な傾向を示すのであれば、それは単なる建前や謙遜では説明しきれない可能性が高くなるからです。

このように、この論文の導入部分では、「人は本当に自分を良く見たいのか」という心理学の普遍的なテーマから始まり、日本文化と北米文化の違い、自己改善のメカニズム、建前と本音の問題、そして文化比較研究におけるメソッドの難しさまで、非常に幅広い背景が丁寧に紐解かれています。

そして研究者たちは、「日本人の自己批判傾向は単なる謙遜(建前)なのか、それとも真の心理傾向(本音)なのか」を明らかにするために、いよいよ具体的な実験へと舵を切っていきます。

②日本人とカナダ人は自己評価をどう受け止めるのか

研究者たちはこの研究を通じて、「人は自分にとって都合の良い情報と悪い情報を、それぞれどのように受け止めるのか」を明らかにしようとしました。特に焦点となったのは、日本人とカナダ人の間で、その反応にどのような違いが存在するのかという点でした。

それまでの研究では、北米人は自分を肯定的に評価しやすく、一方で日本人は比較的自己批判的に振る舞う傾向があることが報告されてきました。しかし、その違いが真に内面的な心理の差なのか、あるいは単なる社会的な「作法」としての振る舞いなのかについては、まだ確実な結論が出ていませんでした。

研究者たちは、この問題をより正確に検証するためには、「自分をどう思うか」を直接問いかけるだけでは不十分だと考えました。単純なアンケート形式では、回答者が無意識に「社会的に望ましい答え(あるいは文化的に適切な答え)」を選んでしまう可能性があるからです。

特に日本では、謙遜を美徳とする文化的背景が根強くあります。そのため、日本人が自己批判的な回答をしたとしても、それが「本音」なのか、それとも「対人関係への配慮による表現」なのかを区別することは容易ではありませんでした。

そこで研究者たちは、この問題を解決するために、「情報をどのように確認し、確信するにいたるか」という具体的な「行動」そのものに注目しました。

もし、人間が本能的に「自分を高く評価したい」と願う存在であれば、自分にとって肯定的な情報はすんなりと受け入れ、否定的な(悪い)情報は疑い、慎重に扱うはずです。反対に、もし自分の不足や欠点に注意を向けやすい性質を持っているならば、成功という肯定的な情報に対してこそ、慎重な反応を示すかもしれません。

研究者たちは、こうした情報処理のプロセスを観察することで、「人が本当に受け入れがたいと感じている情報はどちらなのか」を突き止めようと考えたのです。本研究には日本人とカナダ人の大学生が参加し、まず知能テストのような課題に取り組んでもらいました。

重要なのは知能テストの成績そのものではなく、その後に提示される「評価情報」に対する彼らの反応です。参加者たちはテスト終了後、実際の結果を確認する前に、「あなたは平均より優秀でした」あるいは「平均以下でした」という仮のフィードバックを与えられました。

実験ではコンピューター画面を使用し、自分の成績に関する複数のデータを一つずつ確認していく形式が採用されました。参加者は提示されるデータを順番に読み解きながら、最終的に「自分は平均以上なのか、それとも以下なのか」を確信できるまで判断を積み重ねていく必要があります。

このプロセスにおいて、研究者たちは参加者の情報確認行動を詳細に観察しました。

具体的には、「何回情報を確認したか」「どれくらいの時間、情報を見続けたか」「自分の判断にどの程度の自信を持ったか」といった指標が記録されました。

研究者たちは、これらの行動データから「参加者がどの情報を心理的に受け入れがたいと感じていたか」を可視化できると考えました。

一般的に、人は自分にとって受け入れがたい情報に直面したとき、「本当に正しいのか」と疑い、慎重になる傾向があります。その結果、より多くの情報を確認しようとしたり、熟考の時間が長くなったり、なかなか自信を持てなかったりするはずです。

反対に、自分にとって納得しやすい情報であれば、少ない証拠でも比較的スムーズに確信へと至るでしょう。

研究者たちは、この情報受容のパターンが、日本人とカナダ人でどのように異なるのかを比較・検討しようとしたのです。

この研究手法には、極めて大きな意義がありました。

もし日本人が、単に社会的な場面(建前)として謙遜しているだけであれば、こうした個別の行動レベルにおいては、北米人と似た「自分に都合の良い情報を好む」反応が見られるはずです。つまり、本音で「自分は優秀だ」と思っていれば、「あなたは優秀である」という情報に対しても、自然に、かつ迅速に納得するはずだからです。

しかし、もし日本人が文化的に「自己批判的な方向」へ深く注意を向ける心理構造を持っているのだとすれば、成功という肯定的な情報に対しても、安易に飛びつかず慎重な反応を示すことが予想されます。

研究者たちはこの実験を通じて、「人は世界中どこでも同じように自己を肯定しようとするのか」という根源的な問いを、より客観的な行動データに基づいて検証しようとしたのです。

この論文は、単なる性格の比較にとどまるものではありません。

文化という環境が、人間が「どの情報を自然に受け入れやすいか」という認知の枠組みそのものを変えてしまう可能性を追求した、野心的な研究だったのです。

③実験方法|日本人とカナダ人は自己評価をどう受け止めるのか

この章では、研究者たちがどのような手法を用いて「日本人は本当に自己批判的なのか」という問いを検証したのかが、詳細に説明されています。

本研究の最大の特徴は、単純なアンケート(質問紙調査)だけで終わらせなかった点にあります。研究者たちは、日本人の自己批判的な回答が「本当に内面的な心理傾向によるものなのか」、それとも「社会的な謙遜(ポーズ)に過ぎないのか」を、極めて重要な問題として捉えていました。

もし日本人が、本音では自分を高く評価しているにもかかわらず、人前で便宜的に控えめな回答をしているだけだとすれば、これまでの文化比較研究の前提は根底から覆ってしまいます。そのため研究者たちは、「本人が『自己評価を測定されている』と強く意識しない状況」を作り出し、そこでの自然な行動や反応を観察する必要があると考えたのです。

この実験には、日本人とカナダ人の大学生が参加しました。カナダ側はブリティッシュコロンビア大学、日本側は奈良大学の学生が対象となり、最終的な分析対象者はカナダ人約130名、日本人約128名にのぼりました。これは文化比較研究としては比較的大きなサンプルサイズであり、研究者たちはこの二つの文化圏を対比することで、「自己高揚(自分を良く見せる)」と「自己批判(自分を厳しく見る)」のダイナミズムを捉えようとしました。

実験の開始にあたり、研究者たちは参加者に対して「これは認知と判断に関する研究です」と説明しました。しかし、真の目的は、参加者が無意識に示す自己評価の傾向を観察することにありました。

このように目的を偽った(デセプションを用いた)のには、重要な理由があります。もし最初から「あなたの自己評価の傾向を調べます」と伝えてしまうと、参加者は「他者にどう見られるか」や「どう答えるのが正解か」を意識して、自らの回答をコントロールしてしまう可能性があるからです。特に本研究では、そうした「他者視点を意識した社会的な取り繕い」そのものが検証の対象でした。だからこそ研究者たちは、参加者ができるだけ無防備で自然な反応を示せるよう、真の実験目的を伏せたのです。

実験は、大きく二つのフェーズで構成されていました。

最初のフェーズでは、参加者は「新型の知能テスト」を受けるよう指示されます。コンピューター画面にさまざまな図形が表示され、参加者はそれらを見ながら、できるだけ速く正確に解答していくことを求められました。

例えば、「黄色の星は赤い丸より何個多いか」といった一見すると単純なパズル風の課題です。しかし研究者たちは、これを単なる作業としてではなく、「個人の知能(情報を統合し操作する能力)に深く直結する極めて重要なテストである」と強調して参加者に説明しました。つまり参加者たちは、「これは自分の真の能力が試される重要な局面なのだ」という適度な緊張感を持って課題に臨んでいたのです。

ここには研究者たちの緻密な意図がありました。もし参加者が「ただの退屈な作業だ」と感じてしまえば、結果がどうあれ一喜一憂することはありません。しかし、「知能を測る重要なテスト」として認知させれば、自らの成績に対する心理的関与(コミットメント)は格段に高まります。研究者たちは、この緊迫した心理状態のなかにこそ、自己高揚や自己批判の生々しい傾向が表れると考えたのです。

参加者は約20問の課題に取り組みましたが、本研究の本番とも言えるのは、その後に続く第二のフェーズでした。

第二フェーズでは、一転して「限られた情報から的確に判断する能力を測定する課題」が提示されました。ここで参加者は、先ほど受けた自分の知能テストの成績を、「平均的な大学生のデータ」とリアルタイムで比較していくことになります。

参加者は、コンピューター画面上に1項目ずつ提示されるデータ(自分の得点と平均的な学生の得点の対比)を確認しながら、「最終的に自分は平均より良かったのか、それとも悪かったのか」を判断するよう求められました。

ただし、この比較プロセスは、簡単には結論が出ないよう極めて慎重に設計されていました。もし点数差があまりにも明確であれば、参加者は迷うことなく瞬時に答えを出してしまいます。そうなると、「人がどのように情報を吟味し、受け入れていくか」というプロセスを詳しく観察できなくなってしまいます。

そのため研究者たちは、わざと判断を迷わせるような工夫を施しました。あるデータでは参加者の点数が高く、別のデータでは平均的な学生の点数が高いというように、提示される数字にあえてばらつきを持たせたのです。しかもその差はごくわずかに設定されていたため、参加者は簡単には確信を持てないようになっていました。

この精巧な設計には大きな意味があります。一般的に人間は、自分にとって都合の良い(自尊心を高める)情報はすんなり受け入れる反面、不都合な(自尊心を傷つける)情報に対しては「本当にそうなのか?」と疑う性質があります。

例えば、「あなたは平均より優秀です」という方向性のデータに対しては比較的早く納得できても、「あなたは平均以下です」というデータに対しては、慎重に証拠を吟味しようとするはずです。研究者たちは、この「判断の迷い方」や「慎重さ(確信に至るまでの手数の多さ)」のなかに、文化的な差異が如実に現れると考えたのです。

さらに、実験では参加者がランダムに二つの条件へ割り振られました。 一つは、参加者の成績が平均よりも全体的に少し高く表示される「成功条件(=自分は平均より優秀であるという方向性の情報が与えられるグループ)」です。 もう一つは、逆に平均的な学生の点数の方が少し高く表示される「失敗条件(=自分は平均以下であるという方向性の情報が与えられるグループ)」でした。

ここで特筆すべきは、実際に画面に表示される数字のばらつきや全体のボリューム自体は、両方の条件でほぼ同一に調整されていたという点です。異なっていたのは、単に「どちら側に高い点数を配置するか(=参加者を勝者にするか、敗者にするか)」というフレーミングだけでした。つまり研究者たちは、同質のデータを用いながら、参加者の主観において「成功した」と感じるグループと、「失敗した」と感じるグループを意図的に作り出したのです。

なお、この条件への割り当てはコンピューターによって自動で行われ、実験の進行役(実験者)自身も、目の前の参加者がどちらの条件に属しているのか分からない仕組み(ダブルブラインドの配慮)になっていました。これは、実験者の先入観や態度が参加者の反応に影響を与えるのを防ぐためです。

参加者は、最終的な判断を下すまでに、最低でも5回分のデータを確認する必要がありましたが、それ以降は「もう十分に判断できる」と確信した時点で、いつでも実験を途中で終了することができました(最大で20回分までデータを確認可能)。

研究者たちが最も注目したのは、まさにこの「参加者がどのタイミングで判断を下し、確認を切り上げるか」という行動データでした。自分が平均より優れているという情報をすぐに真に受けて切り上げるのか、あるいは「本当だろうか」と疑って確認を続けるのか。逆に、自分が平均以下であるという現実を受け入れがたいと感じる人は、納得がいくまで多くの情報を貪欲に確認し続けるかもしれません。

だからこそ、単なる内省報告ではなく、「どれだけの情報量を確認したか」「判断までにどれだけの時間を費やしたか」という客観的な行動指標が、個人の潜在的な心理傾向を炙り出す重要な手がかりとして扱われたのです。

参加者が「もう十分判断できる」として確認を終了したあと、改めて「自分は平均より良かったと思うか、悪かったと思うか」という最終判断と、その判断に対する「自信の度合い」を回答させました。

人は通常、自分にとって好ましい結果には強い自信を持ち、逆に受け入れがたい結果に対しては確信を持ちにくくなります。もし文化によって自己高揚や自己批判の優位性が異なるのであれば、この「自信の表明度合い」にも明確なコントラストが現れるはずだと予測されました。

さらに実験の最後には、カモフラージュを解くための追加質問も行われました。例えば、「このテストは、人間の知能を本当に正確に測定できていると思うか」といった、テストの妥当性を評価させる質問です。

これも人間の防衛本能を測る巧妙な仕掛けです。人は良い結果が出たときには、そのテストを「信頼性が高い」と絶賛し、悪い結果が出たときには「こんなテストは信用に値しない」と過小評価して自尊心を守ろうとする傾向(自己防衛的な帰属)があります。研究者たちは、この認知の歪みにすら文化差が存在するのかを見極めようとしたのです。

その後、自身の客観的な立ち位置をどう捉えているかを測る質問や、一般的な自己肯定感(自尊感情)を測定する質問紙も実施されました。

しかし、この研究において決定的に重要視されていたのは、これら最後の質問紙のスコアそのものではありません。

研究者たちが真にフォーカスしていたのは、「判断を下すまでにどれだけ迷ったか」「どれほど慎重にデータを吟味したか」「何回情報を確認し、そこにどれほどの自信を抱いたか」という、参加者自身もコントロールできない、無意識下のリアルな行動プロセスでした。

これらの一連の行動データのなかにこそ、「日本人の自己批判傾向は本当に実在するのか」、そして「北米人の自己高揚傾向は本当に普遍的なものなのか」という、心理学の大きな謎を解く鍵が隠されていると確信していたのです。

④‐1|結果の統計表|日本人とカナダ人との明らかな違い

項目カナダ人
平均以下と判断
カナダ人
平均以上と判断
日本人
平均以下と判断
日本人
平均以上と判断
判断への自信6.466.816.115.31
情報確認回数9.15回8.05回8.48回10.36回
情報閲覧時間94.6秒78.4秒94.8秒107.1秒
「自分より優秀な学生」の推定割合38.2%34.4%56.5%42.5%
テスト信頼度2.432.773.683.47

④‐2|統計表の結果を解説

この研究の統計結果から得られた最大の知見は、日本人とカナダ人とでは、自分に関する情報の受け止め方に「真逆のパターン」が存在するという点です。

まずカナダ人の行動を見ると、彼らは「自分が平均より成績が低い(失敗条件)」という不都合な情報に直面したとき、非常に慎重になる傾向がありました。データを確認する回数が多くなり、閲覧時間も長くなっています。これは、「そんなはずはない」と結果を疑い、追加の情報を熱心に吟味しようとした(受け入れがたく感じていた)ことを意味します。一方で、「自分が平均より優れている(成功条件)」という都合の良い情報に対しては、比較的少ない情報量と短い時間で、スピーディに納得して判断を下す傾向が見られました。

これに対して、日本人はまったく逆の認知パターンを示しました。 日本人は、自分が「平均より優れている(成功条件)」という肯定的な情報が提示されたときこそ、より多くの情報を確認し、最も長い時間をかけて慎重にデータを吟味していたのです。反対に、「自分が平均より低い(失敗条件)」という否定的な情報に対しては、あれこれと疑うことなく、比較的少ない情報で速やかにその結果を受け入れる傾向が見られました。

このように、情報の「受け入れやすさ」の基準が、日本人とカナダ人では驚くほど対照的であることが行動レベルで実証されました。

また、最終的な判断に対する「自信の度合い」についても、両者の間には明確なコントラストが存在しています。 カナダ人は、「自分は平均以上だ」と判断したときに最も高い自信(6.81)を示し、不利な結果のときには自信が低下するという、分かりやすい自己高揚的な特徴を見せました。一方の日本人は、たとえデータを吟味した上で「自分は平均以上だ」と判断したとしても、その自信(5.31)は、平均以下と判断したときの自信(6.11)よりもむしろ低くなるという、興味深い傾向が確認されました。日本人は、自分が優秀であるという結論に対して、最後まで確信を持ちきれずに慎重な姿勢を崩さなかったと言えます。

さらに、テストそのものに対する信頼性の評価(テスト信頼度)や、周囲における自分の立ち位置の推測(優秀な学生の推定割合)に関しても、文化圏による違いが浮き彫りになりました。 カナダ人は、良い結果が出たときにはテストを信頼し、悪い結果のときにはテストの妥当性を疑うという、自己防衛的な認知の歪みを見せました。しかし日本人においては、結果の良し悪しによるテスト評価の変動が小さく、むしろ全体としてカナダ人よりもテストそのものを高く評価する傾向(3.47〜3.68)にありました。さらに、自分より優秀な他者がどれくらいいるかという推定においても、日本人は自分が「平均以上」と分かった状況でさえ、「周囲の42.5%は自分より優秀だ」と見積もるなど、常に他者を高く見積もる控えめな認知が働いていました。

総じて、この統計データが示す結果は一貫しています。 日本人とカナダ人とでは、「情報の受け入れやすさ」「確認行動の回数や時間」「判断における自信」「テストへの信頼性評価」にいたるまで、認知の枠組みそのものが美しいまでに逆方向のパターンを描いていたのです。

これは、日本人の自己批判的な傾向が、たんなる質問紙の前だけで演じられる「建前(社会的な謙遜)」ではないことを強く物語っています。誰にも見られていないコンピューター画面の前で、無意識に行われた情報確認のステップにおいてさえ、日本人は「成功に対して慎重になり、失敗を自然に受け入れる」という、内面化されたリアルな心理傾向(本音)を明示していたのです。

④‐3統計表の結果から心理的意味

この節では、前節で示された劇的な実験結果が、人間の心理構造においてどのような意味を持つのかが深く考察されています。本研究において最も決定的な知見は、日本人とカナダ人とでは、心理的に「受け入れがたい(直視しにくい)情報」の方向性が完全に対称をなしていたという点です。

おさらいすると、カナダ人は「自分は平均より成績が悪かった(失敗条件)」という否定的な情報に対して、より多くのデータを確認し、判断に迷うといった慎重な反応を示しました。一方で日本人は、これとは真逆に「自分は平均より優秀だった(成功条件)」という肯定的な情報に対してこそ、腰を据えてデータを吟味し、慎重になる傾向を露わにしたのです。

研究者たちはこの決定的な差異を、文化によって規定された「自己理解(自己の捉え方)の枠組みの違い」として解釈しています。

まず北米文化圏においては、伝統的に「自己を肯定的に捉えること」が至上の価値とされてきました。自信を持つことや、自らの有能さを積極的に認識することは美徳であり、人は「自分には価値がある」「自分は有能である」という感覚(自尊感情)を維持・防衛しようとする強力な動機を持っています。

この心理メカニズムは、心理学において「自己高揚(Self-Enhancement)」と呼ばれています。自分を平均よりも優れた存在だと見なしたり、自分にとって都合の良い情報ばかりを無意識に選別して受け入れたりする認知の歪み(バイアス)のことです。本実験において、カナダ人はまさにこの自己高揚のパターンを絵に描いたように示しました。

カナダ人は「平均以下」という突きつけに対し、閲覧時間を引き延ばして執拗にデータを検証し、その判断に対する自信を失い、果てはテストの信頼性そのものを格下げするという防衛反応を取りました。これは、「自分は劣っている」という自己概念を脅かす情報が、彼らにとっていかに受け入れがたいものであったかを証明しています。裏を返せば、「平均以上」という心地よい情報には何ら疑問を抱かず、瞬時に無条件で受け入れていたのです。これは北米文化に深く根ざした「自己肯定の維持動機」と完全に合致する行動でした。

しかし、本研究が心理学界に与えた本当の衝撃は、日本人が示した驚くべき反応にありました。

日本人はカナダ人とは対照的に、「自分は平均より優秀だ」という輝かしい情報に対してこそ、「本当にそうだろうか」とブレーキをかけ、慎重にデータをめくっていたのです。成功のフィードバックを与えられたグループほど情報確認の回数が増え、「自分は優秀だ」と言い切る自信の度合いが低下するというパラドックスが生じていました。

研究者たちは、この結果の持つ重みを極めて厳粛に受け止めています。なぜなら、もし日本人の自己批判的な性質が、巷で言われるような単なる「建前」や「人目を意識したポーズ(謙遜)」に過ぎないのだとすれば、周囲に誰もいないコンピューター画面の前という無意識に近い行動レベルにおいては、カナダ人と同様に成功情報を喜んで受け入れるはずだからです。本音では「自分は優秀だ」と思っているのに人前だけで控えめに振る舞っているだけなら、この孤独な実験環境でわざわざ成功を疑う必要はありません。

しかし現実には、日本人は誰に監視されているわけでもないプライベートな行動面においても、成功という結果をすぐには受け入れませんでした。この厳然たる事実こそが、「日本人の自己批判傾向は、単なる表面的な世間体や謙遜だけでは到底説明しきれない」とする強力な論拠となったのです。

ただし論文では、日本人のこうした自己批判は、決して「自分を嫌悪している(自己嫌悪)」という意味ではないと釘を刺しています。日本人は単純にネガティブ思考に陥っているのではなく、「自らの不足している部分に自発的に注意を向けようとする強固な認知的構え」を持っているというのです。

ここで重要になるのが、「自己改善(Self-Improvement)」という概念です。自分の弱点や至らない点を能動的に見つけ出し、それを絶え間なく修正・克服していこうとする建設的な姿勢を指します。日本文化においては、「自分は完璧だ」と満ち足りる(自己高揚する)ことよりも、「まだ自分には改善の余地がある」と未完の精神を持つことの方に、高い価値が置かれる文化的なコードが存在します。

だからこそ日本人は、「あなたは平均より優秀だ」と褒めそやされたときでさえ、安易に自己満足に浸ることを拒み、「本当に見落としている欠点はないか」「偶然ではないか」と、自省の方向へ意識を向けていたと考えられます。一方で、「あなたは平均以下だ」という苦い情報は、自らの伸び代や改善点を示してくれる有益なシグナルとして、心理的な抵抗感なく自然に受け入れることができたのです。

研究者たちは、この認知パターンの違いが、それぞれの文化が要請する「対人関係のあり方」に由来していると見ています。北米文化が「一個の独立した個人として揺るぎない自信を持つこと」を求めるのに対し、日本文化は「周囲との関係性のなかに埋め込まれた存在として、和や調和を維持すること」を強く求めます。それゆえ日本では、自分の欠点や不足に常に敏感であり続け、それを自ら律して直していく態度こそが、他者と良好な関係を維持するための最大の生存戦略(マナー)となるのです。

また、この「自己高揚(カナダ)」と「自己改善(日本)」のコントラストは、「自分より優秀な学生の推定割合」というマクロな自己評価のデータにも克明に表れていました。

カナダ人は、たとえ目の前で「平均以下(失敗)」という現実を突きつけられた後でさえ、「そうは言っても、大学全体で見れば自分は平均より上のポジションにいるはずだ」という全般的な自己高揚の認識を頑なに維持し続けました。不都合な局所データを見せられても、大本の自尊心は決して曲げない強固な自己防衛が見られます。

一方で日本人は、与えられた目の前の情報に対して非常に実直であり、情報に応じて自己評価を柔軟に変化させていました。成功情報を見れば「自分より優秀な他者は少ない(42.5%)」と見積もり、失敗情報を見れば「自分より優秀な他者は多い(56.5%)」と見積もるなど、事実を歪曲することなく受け止めていたのです。日本人は自尊心を守るために情報をねじ曲げる(自己高揚する)ことよりも、不利な現実も含めてありのままを直視し、自己をアップデートする方向へ動いていたと言えます。

研究者たちはこれら一連の行動ログ、自信の度合い、他者推定のデータを総合的に紡ぎ合わせることで、「北米文化圏では『自己高揚』が心理的基盤となっており、日本文化圏では『自己批判(自己改善)』がその心理的基盤をなしている」という普遍的な結論を導き出しました。

いうまでもなく、この論文は「どちらの文化のあり方が優れているか」という二者択一の優劣を論じているわけではありません。本質的なメッセージは、人間が育つ文化的環境によって、「自らのどの側面に注意の光を当てるか」という認知のOS(基本ソフト)そのものが異なるという可能性を提示した点にあります。長所に光を当てる文化と、欠点(伸び代)に光を当てる文化の違いです。

アンケートの回答という表面的なレベルを遥かに超えて、情報の「確認回数」や「閲覧時間」といった、本人のコントロールが及ばない無意識の行動領域にまでこの文化の刻印(OSの違い)が染み付いていることを、この研究は見事に証明しました。

結果としてこの研究は、「人間は世界中どこでも、自分を良く見たがる生き物だ」という、それまで北米を中心に普遍の真理として信じられていた近代心理学のドグマに対し、極めて強烈な一石を投じることになったのです。

⑤考察|自己高揚は世界共通なのか

この章では、前章までに示された実験結果が、近代心理学における「人間観」に対してどのような思想的インパクトをもたらすのかが、より俯瞰的な視点から考察されています。

本研究が行われる以前、北米を中心とする主流派の心理学では、「人間は基本的に、自分を肯定的に見ようとする強い動機(自己高揚動機)を持つ存在である」という仮説が揺るぎない支持を集めていました。人は誰しも「自分は平均よりも優秀だ」と思い込みたくて、自分にとって都合の良い情報ばかりを熱心に集めてしまう。こうした自己高揚の心理メカニズムは、数々の研究によって繰り返し実証されてきた「人間の普遍的なデフォルト(基本設定)」だと考えられていたのです。つまり、どのような文化圏であれ、人間の根底には「自分を良く見たい」という共通の欲求があるはずだ、という前提が存在していました。

しかし、本研究で浮き彫りになった日本人の反応は、その「普遍的」とされた前提を根底から揺るがすものでした。

データが明かした通り、日本人は「あなたは優秀である」というポジティブなフィードバック(評価結果)を前にしても、それを手放しで喜ぶどころか、むしろ追加の情報を確認して慎重になり、判断への自信を低下させていました。もし、自己高揚が人間の生物学的な本能や普遍的な心理構造であるならば、このような成功情報はもっとスムーズに、心地よく受容されていたはずです。

研究者たちはこの決定的な矛盾に直面し、「これまで普遍の真理とされてきた『自己高揚』は、本当に世界共通の心理現象なのだろうか」という、より大きな問いを改めて社会に投げかける必要性を痛感したのです。

むろん、研究者たちも「日本人には自己を肯定的に捉えたい気持ちが一切存在しない」という極論を唱えているわけではありません。しかし少なくとも、本研究が提示した厳然たる行動ログを見る限りにおいて、日本人の認知システムは、北米人のそれとは全く異なる原理で駆動していることは明白でした。

ここで再び焦点となるのが、第1章から議論されてきた「建前(社会的な謙遜)」の問題です。

それまでの文化比較研究において、日本人が一見すると自己批判的に見える現象に対しては、「本音では自信に満ちあふれているが、和を尊ぶ謙遜文化の手前、アンケート上ではポーズとして控えめに回答しているだけだ」という冷ややかな解釈(あるいは普遍主義的な擁護)が根強く存在していました。つまり、「心の奥底にある本質的な心理は、北米人も日本人も変わらないはずだ」という見方です。

研究者たちは、この「単なる建前説」という反論の可能性を誰よりも強く意識していました。だからこそ、本研究では操作の余地がある単純な自己申告アンケートを退け、「隠されたデータを何回確認したか」「どれほどの時間をかけて熟考したか」「その判断にどれほどの自信を抱いたか」といった、本人のコントロールが及ばない、無意識下の生々しい認知行動を緻密にトラッキングしたのです。

その結果、日本人は誰の目もない孤独な実験状況(コンピューター画面の前)においてすら、「自分は優秀だ」という情報に対してブレーキをかけ、慎重に吟味するという行動を選択していました。

もし日本人が単に「人前で体裁を取り繕っているだけ(建前)」なのだとすれば、観察者のいないプライベートな行動レベルにおいては、自尊心を満たしてくれる成功情報を貪欲に、かつ迅速に受け入れていたはずです。しかし、実際にはその無意識の行動プロセスそのものが、成功を警戒する方向へと深く方向づけられていました。研究者たちはこの動かぬ証拠によって、「日本人の自己批判傾向は、たんなる表面的なマナーや建前という言葉だけでは到底説明しきれない、内面化された本物の心理傾向である」との確信に至ったのです。

ただし、ここで重ねて強調されているのは、日本人が「自己否定的な(自分を嫌っている)人々」であるという陰鬱な結論ではありません。

本論文が照らし出しているのは、日本人の自己批判の底流にある「自己改善(Self-Improvement)」という、極めて建設的で前向きな精神性です。

北米文化においては、自らの長所や能力をポジティブに肯定することが、個人の自信やメンタルヘルス(精神的健康)を維持するための絶対的な条件とみなされてきました。それに対し日本文化においては、自らの「至らなさ」や「未熟さ」を直視し、「自分にはまだ改善できる余地がある」と自省することこそが、個人の精神的な成熟や、コミュニティにおける人間関係を円滑に維持するための基盤となっている可能性が示唆されたのです。

ゆえに日本人は、「優秀である」という判定を下されたときでさえ、安易に自己満足の罠に陥ることを拒み、「本当に見落としている欠点はないか」「次はどうすればもっと向上できるか」という自己改善の方向へと、ごく自然に注意のアンテナを働かせていたと考えられます。反対に、「平均以下である」という苦いフィードバックは、己を成長させるための具体的な「手がかり(伸び代)」として、心理的な抵抗感なくスムーズに受容することができたのです。

研究者たちは、この認知のあり方の違いの背景には、「それぞれの文化圏が要請する『理想的な自己像』の差異」が存在していると考えています。

北米文化のOS(基本ソフト)が個人に求めるのは、「いかなる時も揺るぎない自信を持ち、自らの価値を堂々と主張できる自己」です。自分の能力を疑わず、肯定的なセルフイメージを維持することは、個人としての強さや社会的成功のインフラとなっています。

一方で、日本文化のOSが個人に求めるのは、「常に周囲との調和(和)を重んじ、他者との関係性のなかに適切に身を置くことができる自己」です。集団のバランスを崩さず、他者へ配慮するためには、自分を過剰に肥大化させることよりも、自らの欠点や不足に常に自覚的であり、それを実直に修正しようとする姿勢(自己規律)こそが、社会的な信頼を獲得するための強力な生存戦略となるのです。

また、この「自己高揚(カナダ)」と「自己改善(日本)」の認知的対比は、「自分より優秀な他者の推定割合」という、マクロな認知の歪みを測る質問によっても、より鮮明に裏付けられていました。

カナダ人は、仮に「平均以下(失敗)」という屈辱的な局所データを見せられた後でさえ、全体的な自己評価においては「そうは言っても、大学全体を見渡せば、自分は依然として平均以上のポジションをキープしているはずだ」という強固な自尊心防衛(自己高揚)を崩しませんでした。都合の悪い現実を突きつけられても、自らのポジティブな自己概念を死守しようとする強力な防衛規制が働いていることが伺えます。

対照的に、日本人は提示された目の前のデータに対して極めて実直であり、そのフィードバックに応じて自己の立ち位置の認識を柔軟にアップデートしていました。成功すれば他者を低く、失敗すれば他者を高く見積もるなど、事実をねじ曲げてまで自尊心を強弁(自己高揚)しようとはしなかったのです。これは、日本人が「自分を護るために情報を歪歪化する」ことよりも、「自分にとって不利な現実であっても、それをありのままに受容する」という認知の誠実さを選択している可能性を示しています。

本論文は、これら両者のあり方について、どちらの認知が「正しいか、あるいは優れているか」という二者択一の優劣論で議論を展開してはいません。

研究者たちが真に重視していたのは、人間は育った文化的環境によって、「自らのどの局面に注意のスポットライトを当てやすいか」という、認知的関心の方向性そのものが規定されるという事実でした。北米文化は「光(長所・価値)」へ注意を向けさせ、日本文化は「影(不足・改善点)」へ注意を向けさせる。この違いが、単なるアンケートの文面上にとどまらず、情報の確認回数や閲覧時間といった、身体的とも言える自然な行動レベルにまで深く刻印されている点に、本研究の持つ真の巨大な意義があるのです。

こうして研究者たちは、近代心理学が長年疑うことのなかった「人間は本能的に自分を高く評価したがる生き物である」という絶対的なドグマ(普遍主義)に対し、それが「西欧的な文化に特有のローカルな心理現象に過ぎないかもしれない」という強烈な反証を突きつけました。

本章は、「人間の心理(マインド)は文化から独立した真空のなかに存在しているのではなく、文化という環境との相互作用によって、その形や認知のOSそのものが躍動的に変容し得るものである」という、文化心理学の本質的な理論的枠組みを、最も力強い形で実証した歴史的転換点として位置づけられるのです。

⑥結論|文化によって変わる自己評価の心理

この研究は、日本人とカナダ人とでは、自分に関する「受け入れがたい情報」の方向性がまったく異なっていることを鮮明に描き出しました。カナダ人は「自分は平均以下である」という否定的な情報に対して慎重になり、逆に日本人は「自分は平均より優秀である」という肯定的な情報に対してこそ慎重になる。研究者たちはこの決定的な違いを通して、「人は誰もが自然に自分を高く評価したがるものである」という、それまで北米の心理学で広く支持されていた常識が、決して世界共通の普遍的なものではない可能性を示したのです。

本研究が行われる以前、多くの北米心理学において「自己高揚(自分を良く見せる心理)」は、人間に広く共通して存在する本能的なものだと信じられてきました。人間とは、自分にとって都合の良いフィードバックを素直に受け入れ、自分を「平均よりも優れた存在」だと思い込みたがる生き物である、と考えられていたのです。

しかし、本実験で浮き彫りになった日本人の反応は、その従来の人間観とは完全に対称をなしていました。

日本人は、「あなたは優秀である」という肯定的な情報に対してこそ、立ち止まって慎重になっていました。データを確認する回数は目に見えて増加し、判断に対する自信の度合いも低下していたのです。研究者たちはこの独特な反応を、「日本人は成功という結果をすぐには鵜呑みにせず、心理的に受け入れにくさを感じていた証拠」として解釈しました。

特に決定的な意味を持っていたのは、この文化による違いが、単なるアンケートの回答にとどまらず、情報の確認回数や閲覧時間といった、本人がコントロールできない「無意識の行動レベル」にまで一貫して現れていた点です。

研究者たちはこの結果によって、「日本人の自己批判的な傾向は、単なる建前や、人目を意識した表面的な謙遜(ポーズ)だけでは到底説明できない」と確信するにいたりました。

もし日本人が、本音では自分を高く評価しているにもかかわらず、社会的な体裁を守るためだけに控えめに振る舞っていたのだとすれば、誰の目もないコンピューター画面の前というプライベートな環境では、自尊心を満たしてくれる成功情報を喜んで、かつ迅速に受け入れていたはずです。しかし、実際にはその孤独な行動レベルにおいてすら、成功を警戒し、慎重にデータを吟味するという反応を示していました。研究者たちは、この行動のなかにこそ、日本人の偽らざる内面が表れていると捉えたのです。

同時に、本研究は日本人を単に「後ろ向きで自己否定的な人々」だと結論づけているわけではありません。

研究者たちが本論文で優れて見出したのは、日本人の自己批判の底流にある「自己改善」という、きわめて前向きな精神性でした。

北米の文化においては、自分の長所や能力をポジティブに肯定すること(自己肯定)が、自信や精神的な健康を維持するための絶対的なインフラとみなされてきました。それに対して日本の文化においては、「自分にはまだ改善すべき点がある」と未完の自覚を持つことこそが、個人の成長や、周囲の人間関係を円滑に維持するための基盤となっている可能性が示されたのです。

だからこそ日本人は、「優秀である」というフィードバックを受け取ったときでさえ、安易に自己満足に浸ることなく、「本当に見落としている欠点はないか」「偶然ではないか」と、自省の方向へ自然に注意を向けていたのだと考えられます。反対に、「平均以下である」という苦い情報は、自分をさらに向上させるための貴重な「手がかり(伸び代)」として、心理的な抵抗感なく受け入れることができたのです。

研究者たちは、このような認知のあり方の違いの背景には、「文化によって『理想とされる自己のあり方』そのものが異なっている」という事実が存在すると考えています。

独立した個人であることを尊ぶ北米文化では、「揺るぎない自信を持つこと」や「自分の価値を堂々と主張できること」が何より重要視されます。一方で、関係性のなかの調和を尊ぶ日本文化では、「周囲との和を保つこと」や「他者に迷惑をかけないこと」に高い価値が置かれます。そのため日本では、自分の欠点や不足に常に敏感であり続け、それを実直に修正しようとする謙虚な姿勢こそが、他者と良好な関係を築き、社会的な信頼を得るための洗練された知恵となるのです。

総じて、この研究が社会に提示した最大の意義は、「育った文化的環境によって、人間が自分のどこに注意の光を当てるかが根本から変わる」という可能性を実証した点にあります。北米文化は「長所や価値」へ注意を向けさせ、日本文化は「不足や改善点」へ注意を向けさせる。そしてその違いは、単なる思想の差異にとどまらず、情報の受け止め方や判断の下し方といった、人間の根源的な心理反応のシステムそのものに深く刻み込まれていました。

研究者たちはこの実験を通じて、「人間の心理は文化から切り離されて独立して存在するのではなく、文化という環境によってその形や仕組みそのものがダイナミックに変容し得るものである」という事実を、極めて力強い形で証明したのです。

「人は世界中どこでも同じように、自分を良く見たがる生き物である」という、それまでの近代心理学が疑わなかった普遍的な前提に対し、極めて大きな一石を投じた研究として、本論文は文化心理学の歴史において、今なお色褪せない決定的な足跡を残し続けています。

パーソナルリカバリーについて|つまり、僕たち日本人は?|じゃあ当事者は?

パーソナル・リカバリーの本当の目的って「病気があっても、自分は大丈夫」って思えることですよね。だからこそ、日本人の気質として無意識の内に当事者の方が「自分のダメなところばかりにスポットライトを当ててしまうクセ」を持っていることを知っていることが大事だし、当事者も無意識にそういう考えの傾向になることがある可能性についてを知っておくと、無意識に悪い方向に考えていたことを意識的に気付けるようになって、意識できれば一旦立ち止まって考えることが出来るようになります。「悪い方向で考えてたな」って後から気が付けるようになることは、改善できる余白が生まれる事なので、パーソナルリカバリーにおいて重要な一歩だと、僕は思います。

その上で、意識的に「できているところ」や「長所」に光を当て直すことは、めちゃくちゃ大事だと思います!

日本人には日本人の傾向からパーソナルリカバリーを考えるべき|それらをさらに細分化して、自分には自分のパーソナルリカバリーがあることを理解していこう

この論文では「欧米と日本、どちらの心の仕組みが良い悪いではない」と結論づけていました。これは、統合失調症のリカバリーで重要なことだと思っていて、欧米生まれの人と同じように自分にとって良いことだけを言っても、日本人の考え方の傾向として、欧米と同じように受け入れる人は少ないです。

僕自身、僕にとって都合のいいことを言われ続けたからと言って、自己肯定感は上がらないですし、裏があるんじゃないかって不審に思うので、「ありがとう」と表面上一言言って、事実として自分はどうなのかを考えます。

それは僕個人の特性もあると思いますが、大多数の日本人が自分にとって都合のいいことを、都合のいいまま解釈しない気質があるとわかったので、統合失調症でも、周りの人が当事者にとって良いことを言えば『パーソナルリカバリーが上手くいく』とは考えにくいと感じています。

過度に良いことを言いすぎると、返って『自分のことを見ていないのでは?』『自分の気持ちを分かっていないのでは?』と感じるようになってしまうこともあるので、良いことを言うだけではなく、実際の行動を見て、事実として出来たことを「今日はできたね!」って共有すること、その共有している時間がリカバリーなのかなって思っています。

『自分のペースで、少しずつ自分をアップデートしていくこと』そのための時間と余白がリカバリーの道を歩くということ。

元々、自己肯定感を上げることはパーソナルリカバリーにおいてすごく重要だと感じていたのですが、僕はこの論文を読んで、表面上の言葉だけじゃなくて、無意識に持っている「自分の心のクセ」を理解した上で、物事を考えられたらいいなと感じました!

この論文では、日本人の傾向が分かったけど、統合失調症は100人いれば100通り。当事者一人ひとりが自分の傾向を理解すること、それらを家族の方や支援者の方と共有することは大事なことだと感じました!!

こちらも読んでおくと考え方の選択肢が広がるので時間がある時ぜひ!|リカバリーに関しての記事になります!(・ω・)ノ

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参考文献

Beyond Self-Presentation: Evidence for Self-Criticism Among Japanese

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3年間ブログを書いているのですが、3年間の収益0円になります(´;ω;`)ウゥゥ
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中々3年やってても収益0円はメンタルきます(笑 この記事良いなって思った方だけでいいです!寄付するほどではないと感じた方は全然大丈夫ですし、厳しめのジャッジでOKです!よろしくお願いしますm(_ _)m

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