生きるという事は、全てにおいて相手(誰か)が了承している範囲内の事しかやってはいけない状況が大前提にある。実は今も常に誰かの了承を無言で得ている状態なんですぜ!

統合失調症
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こんにちは! 統合失調症歴11年の大地です!

今回のタイトルは、『生きるという事は、全てにおいて相手(誰か)が了承している範囲内の事しかやってはいけない状況が大前提にある。実は今も常に誰かの了承を無言で得ている状態なんですぜ!』にしました。

これは、僕が学生時代に将来の自分の就職したい職業の話になった時のことです。僕は、まだ明確に決まっていなかったのですが、『誰かのためになる仕事をしたい』と言いました。そしたら、当時の友人に『自分自身が何をやりたいか』で『自分の人生を決める』ことが正しい。
『誰かに何かをしたいからその職業に就く』という考えで、人生を決めるのは間違っている。それは本当に自分のやりたいことではない。と言われたことがあります。

はい?? 何言ってんだこいつ??? と思ったのですが、僕の大学はそういうイカレた奴もいるくらいの大学なので、「へぇ~!!すっげぇ!!すっげぇ!!」と言って適当に返していました(笑笑

ここからタイトル回収なのですが、大人になるに連れて、普通はそういう考えで生きていくことはできないということが、感覚で分かるんですよ。

例えば、
飲食店に行ってお店で頼んだ料理のお皿割って遊んでいたらヤバいやつですよね(笑
普通に通報されますよね(笑

もっと簡単な事だと、喫煙できない飲食店の店内で、喫煙していてもヤバいやつですよね(笑
これも普通は通報されますよね(笑

更に身近な例でいうと、友達の家に遊びに行きましたとします。友達の家のテレビとか投げて壊し始めたらヤバいですよね(笑
これもしっかり通報されます。テレビを壊した後に、友達に向かって「家入って良いって言ったじゃん、俺が入ったら壊すに決まってんじゃん」って言ってたら頭おかしいです(/・ω・)/

これらの事に関してなのですが、お店に入る時にうちの店ではお皿割らないで下さいとか、友達の家に入る時にうちの家ではテレビを壊さないで下さいとか言う必要がない状態が普通ですよね。
これは、何も言わなくても相手が了承した範囲内の事しかやってはいけないというルールがあるからなんです。

要は、お店に入ってご飯を食べることは無言の了承の範囲ですが、お金を払ったからと言って、お皿を壊すことをお店側は了承していないという事です。

お店に行ったらそのお店が了承した範囲内の事友達の家でも友達の家の人が了承した範囲内の事しかやってはいけませんよ。というルールがあり、あくまでその一例でしかありません。
もっと規模を拡大させます!!
日本には日本の法律があって、日本にいる限り日本という国が了承した範囲内の事しかやってはいけませんよ。というルールがあります。

会社に勤めると、その会社ではその会社のルールがあり、学校だとその学校のルール(例えば校則)があります。
社会というもの自体が、無言の了承というルールのもとに成り立っているのです。

会社で勤務時間中に、昨日のテレビ番組見忘れたから見ながら作業をする。という事は許されないです。(もしかしたら許されるところもあるかもしれませんが普通は絶対ダメです)これは、作業もしっかりしているのであれば、法律上問題ないように思えますが、会社側から注意を受け、ダメだと言われます。
これは『相手や誰か(この場合は会社です)が了承している範囲内の事しかやってはいけないという事が大前提にある。』というのが会社の土台になっているからです。

僕の学生時代に『自分自身が何をやりたいか』で『自分の人生を決める』ことが正しい。『誰かに何かをしたいからその職業に就く』という考えで、人生を決めるのは間違っている。それは本当に自分のやりたいことではない。と言っていた人は、『自分自身』とか『自分の』などの自分という言葉の捉え方がバグっていて、『自分自身や自分の事を考える』という上で相手の気持ちを踏まえたり配慮したり、考えるということは間違っている。という考え方になっています。
これって、誰もが考えなくても感覚で分かっている『無言の了承』という考え方が分かっていない状態です。

僕は今回のブログであえて『無言の了承』について言葉にしましたが、友達んちに行って友達んちのテレビをわざと破壊する人って基本いないんですよ(笑
これって、僕があえて言葉にしなくても、みんなが感覚で『相手や誰かが了承している範囲内の事しかやってはいけないという事が大前提にある。』分かっていて、何気なく日常生活を送っていて、誰もが無意識にやっている事なんです。

勿論生きる上であえて言葉としての了承を得ることが大事な事も沢山あります。あくまで、あえて言葉にしなくても『無言の了承』があるからこそ社会は成り立っているという事が言いたいんです。

最後に、僕の学生時代の友人の言う『自分』という概念の捉え方は、罰則があるからやってはいけないのであって、罰則がないなら自分のやりたいことをやるうえで相手の気持ちを考える必要がない。つまり、罰則がないなら友達んちのテレビを壊していいという考え方に直結します。
『無言の了承』という社会の構造自体を無視した思考ですよね。

自分自身という言葉は、『私自身』という概念ではなく『自分の歩んできた人生』という概念で過ごしてみると違う世界が見えて面白いかも!! と感じました!!

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